2009年6月23日火曜日

6/23 Today プラッシーの戦い(1757)

プラッシーの戦い - Wikipedia: "プラッシーの戦い(ぷらっしーのたたかい)は、1757年、インドベンガル地方のプラッシーで行われた、イギリス東インド会社と、連合軍(ムガル帝国ベンガル太守率いる土侯軍と後援するフランス東インド会社)との間で行われた戦いである。

1757年6月23日、イギリスの軍人クライヴは、東インド会社の軍隊を率いて、フランス勢力と組んだベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラとカルカッタの北方プラッシーで交戦した。

クライブの率いたイギリス東インド会社軍は僅かに欧州人兵士950人・セポイ2,100人と9門の砲・100人の砲兵を有していたのみで、これに対してフランス東インド会社と同盟していたベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラは16倍(50,000人)もの歩・騎兵力と40人のフランス兵が操作する重砲を含む53門の砲を装備して戦いに臨んでいた。

ベンガル太守軍の兵士達は日頃の訓練不足と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から当日の豪雨の中に火薬樽や銃・砲を放置し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。雨が止んだ14:00頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍に一方的に攻撃されて惨敗した。"

これでイギリスのインド支配は決定的なものとなった。インド側はなぜこの戦いにボロ負けしたのか?

雨のためとか裏切りのためとか説明されるが、決定的だったのはインド側の兵士の個性が強く集団行動をとれなかったのに対し、イギリス側はヨーロッパ式集団隊列訓練を受けていたこと(いまのイランの親衛隊や将軍様の兵隊の行進みたいなもんだね)。日本でも昔の鎌倉武士はばらばらに個性的行動をとった。集団ロボットみたいな隊列行進はヨーロッパの発明なのだ。

集団主義はアジアのお家芸と思われているが、当時は逆だったみたいで面白い。



0 件のコメント: